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続けてみた vol.3 [ヘ.タリア]

 この部分、ハッキリ言って単なる歴史の確認です。

 あと……棒茄子に気違ってにょたのコス衣装を発注しちまったんだぜ。
 誰得ってか、ドコ着ていくつもりなんだぜ?


   1942年 ガダルカナル島

 ガタルカナル島――オーストラリア北西約2000キロ(ほぼ日本の本州の長さ)のソロモン海に浮かぶ、ソロモン諸島の一つである。アメリカ西海岸からは約1万キロあるが、ハワイからなら日本本州とほぼ同じ約5800キロに位置する。およそ2500万年前に海中から隆起して形成されたとされ、民族は東南アジアに起因すると考えられている。

 日本に種子島から鉄砲が伝来(1543年)した25年後の1568年、西洋人としては初めて、アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラというスペイン人の探検家がソロモン諸島を発見した。以降、1893年にイギリスの植民地となり、1942年5月に日本がツラギ島を占領した。

 ツラギ島は周囲5キロ足らずの小さな島であるが、当時はソロモン諸島政府の政庁も置かれた首都だった。また、隣接するフロリダ島との間隔は短いながら海峡の水深は深く、港としての価値も高い。

 日本がソロモン諸島を攻略したのは、アメリカとオーストラリアの連絡を絶ち、早期にオーストラリアと講和を結ぶことを期待してであった。ただしこの考えには、その後アメリカとの戦いが控えているという前提がある。

 最終的にはアメリカとの戦いは避けられない――日本でそう考えていたのは海軍だけだった。陸軍は、主敵は大陸のロシアでありアメリカ戦は回避可能と考えていたのである。

 6月5日から7日、日本海軍はハワイ諸島北西にあるミッドウェー島での戦いに敗北する。

 日本の国力では長期戦は戦えないと見越した海軍がアメリカを何とか短期戦に引き込むため、多少の被害は覚悟の上で、敵の弱点を突いて米海軍・米国民の士気を喪失させることを目的とした戦いだった。

 しかし日本海軍は逆に敗北を喫し、作戦に参加した主力空母6隻のうち4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被った。日本海軍の戦力喪失は甚だしく、これ以降戦争における主導権を失う。

 この状況下で日本海軍はアメリカとオーストラリアの分断を可能とするため、ソロモン諸島での動きを活発化、同地域での制空権を確保するためツラギ島近くに飛行場の建設を検討する。飛行場建設に必要な平野が何とか確保できたのが、ガダルカナル島北西部のルンガ川東部であった。

 ガダルカナル島に日本軍が飛行場を建築しているという情報は、建設が始まった7月上旬にはアメリカ軍内で知られていた。そして、怯えた。飛行場が完成してしまえば、ソロモン諸島周辺の制空権は日本に握られ、アメリカ軍の活動はままならなくなるからだ。

 開戦初期、まだアメリカ海軍の兵力は日本海軍に追いついていなかった頃、アメリカはことの重大さを認識し、持てる兵力を掻き集めてガダルカナル島攻略の機動部隊を編成する。

 東西160キロ南北48キロ、面積にして約5300平方キロ、日本でいえば愛媛県ほどの大きさしかないこの島で、1942年8月7日から1943年2月7日にかけて、完成したばかりの飛行場をかけて日本軍と連合軍10万の兵士が争い、3万の兵が永久の眠りについたのである。

 地球の裏側では、3年足らずで元帥にまで昇進したドイツ国防軍陸軍軍人エルヴィン・ロンメルが『砂漠の狐』と称され、イギリス首相チャーチルに「ロンメル!ロンメル!ロンメル! 奴を倒すこと以上に重要な事など存在しない!」と叫ばせながらも、ドイツ軍の戦況悪化と共に栄光の翳りを見せ始めた頃だった。
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